稲森 英彦 Hidehiko INAMORI
プラナ松戸治療室代表
【略歴】
東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。
1998年に鍼灸師資格を取得。心療内科クリニックに勤務し、東洋診療部門を立ち上げる。
2005年に自律神経系・心療内科系鍼灸院のプラナ松戸治療室を開設。
現在(2025年)臨床歴27年。
ストレスによる息苦しさ、めまい、喉のつまり感、動悸、吐き気、不眠、頭痛、首肩腰痛、慢性疲労、不妊、目の不調などに。全身のバランスを整えて自律神経の乱れを癒します。
詳細はコチラ現代医学・東洋医学・心理学の視点から総合的にアプローチする健康相談を提供します。検査データに基づいた的確な助言、鍼灸や漢方など自然治癒力を高める方法、心のケアまで、専門知識と経験で丁寧にサポート。対面・オンライン相談が可能です。
詳細はコチラ息苦しさ、不眠、動悸、うつ症状、痛み、めまいなど、幅広い症状に鍼灸で改善をもたらした症例集です。自律神経の調整から、体調不良まで、心身の調和を取り戻す症例をご紹介します。
詳細はコチラご予約、ご相談、ご質問などはこちらのフォームをご利用下さい。
糖尿病治療において食事療法は極めて重要です。しかし近年、「何をどのように食べるべきか」については医師や学会によって方針が分かれてきています。
中でも注目を集めているのが、山田悟医師が提唱する「ロカボ(緩やかな糖質制限)」。一方で、日本糖尿病学会(JDS)や米国糖尿病学会(ADA)は長年にわたり、標準的な医療ガイドラインを提示してきました。
ただし、ここで注意すべきなのは――学会のガイドラインは「糖尿病患者向けの医療指針」であり、健康な一般人向けではないという点です。
山田医師は「ロカボ」を糖尿病患者から健康な一般人まで広く推奨しています。その理由は、現代人の食生活が糖質に偏っているという問題意識からです。
栄養素 | 推奨内容 |
---|---|
糖質 | 1食あたり20~40g、1日合計70~130gに抑える。間食は10g以下。 |
脂質 | 制限せず。「質」を重視。不飽和脂肪酸を積極的に。 |
タンパク質 | 十分に摂取。肉・魚・卵・豆類など。 |
📌「ロカボは“おいしく楽しく続けられる”糖質コントロール。栄養の偏りは起こさず、むしろ代謝を改善できる」
ー 山田悟医師
JDSが推奨するのは「エネルギー制限中心のバランス食」です。
栄養素 | 推奨内容(例:1日1,800kcal) |
---|---|
糖質 | 総エネルギーの50~60%(225~270g) |
脂質 | 20~25%。飽和脂肪酸を控える。 |
タンパク質 | 15~20%。腎機能に応じて調整。 |
📘出典:『糖尿病食事療法のための食品交換表 第7版』
ADAは「一律ではなく個別化」を重視。患者の生活に応じて複数の選択肢を提示します。
栄養素 | 推奨内容 |
---|---|
糖質 | 総エネルギーの45~55%。低糖質食も容認。 |
脂質 | 25~35%。質を重視し、トランス脂肪を避ける。 |
タンパク質 | 15~20%。腎障害時には調整。 |
📘出典:ADA “Standards of Care in Diabetes—2023”
栄養素 | 山田悟医師 | 日本糖尿病学会 | 米国糖尿病学会 |
---|---|---|---|
糖質 | 1日70〜130g | 1日225〜270g | 柔軟。個別に調整 |
脂質 | 制限なし。質を重視 | 20〜25% | 25〜35% |
タンパク質 | 制限なし | 15〜20% | 15〜20% |
健康な一般人が学会の食事療法をそのまま真似ることにはリスクもあります。一方、糖尿病患者がロカボを行う場合は、医師と相談の上で取り入れることが重要です。
「東洋医学にはエビデンスがない」と言われることがあります。
しかし、果たして本当にそうでしょうか?
今回は、東洋医学の「歴史的エビデンス」には信憑性があるのか?
そして、現代医学のエビデンスは“絶対”なのか?という問いを掘り下げてみたいと思います。
東洋医学は、中国を中心に数千年にわたって継承・発展してきた伝統医学です。
そこには膨大な臨床経験が蓄積されており、「効いたものが残り、効かなかったものは淘汰された」という歴史があります。
これは、現代科学がいうエビデンス(科学的証拠)とは異なりますが、経験的エビデンスと呼べるものです。
東洋医学の治療や薬方は、「多くの人に使ってよかったもの」が記録・伝承されてきました。
これは、帰納法(たくさんの具体例からパターンを導く)に基づく知識体系です。
つまり、「何千年も人々が使ってきた」ということ自体が、一種の“証拠”と考えることもできるのです。
東洋医学は、西洋科学と同じ意味での「論理」では動いていません。
しかし、それは「非論理的」なのではなく、別のロジックに基づいています。
例えば、東洋医学は「全体のバランス」「変化の相関関係」を重視します。
これは西洋的な「原因と結果の直線的関係」とは異なりますが、人間の複雑な体の働きに対して、独自の合理性を持っています。
「この薬で良くなった」「この治療で改善した」という経験は、科学的には“逸話的”と見なされがちです。
しかし実際には、治療者にとっても患者にとっても、最もリアルな「証拠」と言えるのではないでしょうか?
では、現代医学が重視する「科学的エビデンス」は、絶対的に正しいのでしょうか?
現代医学の根幹にあるのは、「無作為化比較試験(RCT)」や「統計的有意性」です。
これらは17〜18世紀のヨーロッパで確立された知の枠組みであり、いわば西洋思想の産物です。
科学は普遍的なようでいて、実は文化的な価値観の上に成り立っています。
ヨーロッパ中心主義とは、ヨーロッパ(あるいは欧米)の歴史・文化・知識体系を「普遍的で正しい」とみなす思想傾向です。
他の文化や価値観がこれに比べて劣っている、あるいは未発達とされる構造が根底にあります。
医療においても、この見方は強く影響しています。
西洋医学を唯一の「科学的」医療とし、その他の伝統医療(東洋医学・アーユルヴェーダ・アフリカ伝統医学など)を「非科学的」「時代遅れ」として切り捨てる傾向がそれです。
植民地主義(Colonialism)とは、一国(多くは欧米諸国)が他国・他民族を支配し、その土地・資源・文化・制度までも支配・再構築していく歴史的過程を指します。
この過程で、伝統的な医療体系も「文明化」の名のもとに解体・排除されてきました。
たとえば、イギリスの植民地であったインドでは、アーユルヴェーダが「非科学的」とされ、西洋医学が支配的な医療とされました。
同様に中国でも、清朝末期から中華民国時代にかけて、西洋医学が制度的に優遇され、漢方や鍼灸が排除される動きがありました。
医療は単なる技術ではなく、知の支配・文化の支配の手段にもなりうるのです。
現代医学には多くの成果があり、それを否定する必要はまったくありません。
一方で、東洋医学を「非科学的だから価値がない」と切り捨てる姿勢には、文化的傲慢さや歴史的な支配構造の影響が含まれている可能性があります。
科学と伝統医学、それぞれの強みと限界を理解し、対立ではなく共存へ。
それがこれからの医療のあり方ではないでしょうか?
「エビデンスがあるかないか?」という問いの前に、
「どのようなエビデンスを大切にするのか?」という問いを立てることが、私たちには必要かもしれません。
科学的エビデンスも、経験的エビデンスも、それぞれに意味がある。
その両方に敬意を払いながら、これからの医療と健康を考えていきたいと思います。
監修・執筆:プラナ松戸治療室
私たちはつい、「世界には始まりがある」と考えがちです。
ビッグバン、天地開闢、創世神話──どれも「最初に何かがあった」と語る形式をとります。
けれども仏教、特にパーリ仏典の『アガンニャ経』が描く宇宙の始まりは、これまでの宗教とはまったく異なる観点を提示します。
それは、「神がつくった世界」でもなければ、「物質が偶然生じた世界」でもありません。
世界は、“存在たちの行為”によって濁り、崩れ、制度化されていく過程なのです。
そこにあるのは、創造主ではなく、“倫理の変化”としての世界の生成です。
『アガンニャ経』(Dīgha Nikāya 27)は、古代インドにおいて最も異端でラディカルな創世神話の一つです。
仏陀はこの経典の中で、若きバラモンたち(階級を尊ぶ支配層)に向けて、こう語ります。
世界は永遠に循環し、生滅を繰り返す。
あるとき、世界は収縮し、再び展開し始める。
最初に現れたのは「光り輝く存在たち」であり、彼らは物質を持たず、空中を漂っていた。
だが、あるとき、地上に現れた「大地の甘露」を味わったことで、彼らは物質を持ち、肉体を持ち、比べ、争い、制度を生み出し始めた。
ここで注目すべきは、世界が「神の意志」によって始まったのではなく、存在たちの“欲望”と“分別心”によって崩れていったという点です。
この物語に描かれるのは、宇宙の創造ではなく、関係性の堕落です。
最初に現れた存在たちは、非物質的で、互いに差異がなく、分別もなかったとされます。
彼らは空中に浮かび、光そのものでした。
ところが、「大地の甘味」に目を奪われ、それを舐めたとき、はじめて「味わう」という個別の行為が生まれたのです。
この瞬間、差異が生まれます。
「あの人は多く食べた」「私は少ない」「私のほうが先だった」──
こうして、分別と比較、欲と争いが始まった。
それはあたかも、エデンの園でアダムとイブが「知識の実」を食べた後、羞恥心と分離感を持ったような象徴性を帯びています。
世界は、「悪」や「罪」から始まったのではありません。
“比べる”という心の働きが、世界を分裂させたのです。
欲望による争いが広がると、やがて「境界」を作り、「所有」を主張する者が現れます。
「これは私の土地だ」
「これは私の食べ物だ」
「これは私の女だ」
ここから、社会秩序が必要になります。
王が立てられ、階級が作られ、法律や宗教が制度化されていきます。
だが仏陀は、この制度の起源は本来的に崇高なものではないと喝破します。
それは、「堕落した関係性をとりあえず保つための応急処置」に過ぎないのです。
この思想は、バラモン階級を頂点とする当時のインド社会に対する痛烈な批判でした。
仏陀は、制度的権威ではなく、「行為によって人は清らかにも汚れてもなる」と説きます。
それは、行動=カルマが世界を編むという倫理的宇宙論です。
この宇宙観の核にあるのが、仏教の根本教理である縁起(Paticcasamuppāda)です。
縁起とは、すべてのものが互いに依存しあい、独立した実体など存在しないという洞察です。
『アガンニャ経』は、この縁起の思想を、時間的=宇宙論的なスケールで表現したものと言えます。
世界は「存在の場」ではなく、関係の結果として“今ここ”に立ち上がっているということ。
それは、易経が語った「象としての世界」と響き合っています。
ここで再び問いましょう──
「世界が壊れる」とは、どういうことか?
それは、隕石が落ちてくることでも、経済が崩壊することでもありません。
もっと根本的には、人と人との関係性が濁り、分断が深まり、信頼が壊れていくことです。
つまり、世界の崩壊とは、“縁”が切れること。
そして、“縁”が切れるとは、倫理が失われること。
『アガンニャ経』の核心はここにあります。
世界は、倫理的関係の織物として成立しており、欲望と分別がそれをほどいていく。
では、崩れた世界はどうすれば再生するのか?
仏教において、それは「神による赦し」ではなく、「自己の内にある“気づき”と“修復”」によって可能になります。
これが、仏教が示す「倫理的宇宙論」なのです。
仏陀はこのように語っています:
行為によって人は清らかになる。
行為によって人は汚れる。
その人が何者であるかは、その人の行いによってのみ決まるのだ。
世界の再生とは、制度や権威の刷新ではなく、
一人ひとりの関係性の回復=縁の再編成によって起こるのです。
『アガンニャ経』は、宇宙論を語りながら、実は私たちの日常を語っています。
あなたと他者、あなたと自然、あなたと未来。
そのすべては、「私のもの」「あなたのもの」と分けた瞬間に、濁り始めます。
そして、その濁りは、個人の意識だけでなく、社会構造、文明の形、さらには世界の構造そのものに影響を与えている。
世界は、倫理の網の目のようなものです。
その糸が一本一本ほつれていくとき、世界は音もなく崩れていく。
逆に、その糸をもう一度、丁寧に織り直すことで、世界は再び立ち上がってくる。
それは、制度ではなく、「気づき」と「思いやり」によってしか達成されない、静かで力強い革命です。