Go to Top

【世界とは何か?】第4回:多様な存在と応答する世界──仏教とユング心理学による存在論の探究


なぜ世界には多様な存在があるのか?

私たちが生きるこの世界には、驚くほど多様な存在があふれています。
人間、動物、植物、鉱物、微生物、そして山や海、雲、風といった自然現象──
それぞれが独自のかたちで「ある」ことを主張しているかのようです。
なぜこのように多様なものが存在しているのでしょうか?

さらに言えば、そのような多様な存在のひとつである「私」が、問いを発するとき、
なぜある存在は“応答”し、ある存在は応答しないのでしょうか?
この問いに対し、今回は仏教の深層的な存在論、特に『華厳経』『阿含経』やアビダンマを手がかりにしながら、
またユング心理学の補助線を引きつつ、丁寧に掘り下げていきます。


存在の多様性──縁起と無数の条件

仏教の中心的な思想のひとつが「縁起(パティッチャ・サムッパーダ)」です。
これは「すべての存在は、無数の条件が重なり合って成立している」という原理を意味します。

『経蔵小部自説経』では、縁起は次のように語られます:

「これあって、これあり。これなければ、これなし。」

一見すると単純なロジックに見えますが、この言葉が示しているのは、
世界のあらゆる現象が他との関係によって成立しているという、徹底した関係性の思想です。

山は山だけで存在しているのではなく、雨、岩、植物、重力、空気、そしてそれを見る「私」という認識主体が関与することで、
初めて“山”として現れる。そう考えたとき、多様な存在は、それぞれが孤立しているのではなく、
縁によって互いに支え合っているネットワークのようなものと捉えられます。


華厳経のヴィジョン──宇宙は相即相入の網の目

この縁起の思想を宇宙的スケールで展開したのが『華厳経』です。
『華厳経』における世界観は、「一即多・多即一」「一切即一・一即一切」として知られます。

たとえば、経典に登場する「インドラの網」は象徴的です。
インドラ神の網の交点には宝珠がかけられ、すべての宝珠が他の宝珠を映し合っている。
これは、あらゆる存在が他のすべての存在を内包しながら現れている、という壮大な宇宙モデルです。

この観点に立つと、世界に多様な存在があるのは、それぞれが他の存在と響き合いながら、
その関係性によって絶えず生成・変化しているからなのです。


存在同士の関係性──仏教的相依性とユングの元型

存在は孤立して存在しているのではなく、互いの相互依存によって形づくられます。
アビダンマにおいても、物質(ルーパ)と心(ナーマ)は常に縁によって結びついています。

ユング心理学では、このような関係性を「元型(アーキタイプ)」の相互作用と捉えることができます。
たとえば「母」「影」「師」という元型は、個人の無意識だけでなく、集合的無意識として存在し、
他者との関係を形成するひな型となります。

私たちが誰かと出会ったとき、「なぜか強く惹かれる」「なぜか恐れを感じる」といった感情は、
表層の人格ではなく、深層での元型同士の呼応である可能性があります。


応答する他者としない他者の違い──意味が通じるか否か

問いを発したとき、なぜか「応答が返ってくる」ことがあります。
たとえば、悩んでいるときにふと耳にした言葉が、まるで答えのように感じられる。
一方で、どれだけ求めても沈黙しか返ってこないこともあります。

この違いは何でしょうか?
仏教的には、それは「縁が熟しているかどうか」に関係しています。
アビダンマでは、心が対象と出会うときに一定の条件(縁)が整わなければ、認識すら起こらないとされます。

また、ユング心理学では、共時性(シンクロニシティ)が成立するのは、
内的準備と外的象徴が意味的に一致したときです。
応答が返ってくるのは、内なる問いが深まり、その問いに「意味の構造」が共鳴する条件が整ったときなのです。


「お金持ちになりたい」という願望はなぜ応答されないのか?

たとえば「お金持ちになりたい」と願っても、それがすぐには叶わない。
これは単に“努力が足りない”という話ではありません。

仏教では、欲望そのものに善悪の価値をつけませんが、
その欲望がどのような「業(カルマ)」の文脈で生まれ、どのような「縁」によって育つかを重視します。
「お金を得たい」という欲求が、自他共に益する動機であれば、
長期的には善因善果の方向に進む可能性がある。

しかし、短期的で自己中心的な「欠乏感」から出た願いは、
まだ縁が熟していないため、宇宙的な応答を得にくいのです。
ユング心理学的にも、「自己実現」とは、外的な富よりも内的な意味の探求に近づくとき、
深い一致が生まれるとされます。


応答とは〈意味の接続〉である

応答する世界とは、「意味が通じる世界」です。
世界が応答するのは、単なる言葉や行動にではなく、その背後にある「真の問い」「深い動機」に対してです。

応答しない世界とは、まだその問いが熟していないか、
あるいは外界との共鳴条件が整っていない状態だといえます。
つまり、応答とは“心の状態と世界の状態”が重なり合った刹那にのみ生じる、
精妙な〈意味の回路〉なのです。


おわりに:世界は関係の網の目として、意味の中に現れる

多様な存在があるのは、それが宇宙的な縁起の現れであり、
その関係性の網の目の中に「私」もまた織り込まれているからです。
応答する世界とは、その網の中で“意味が点灯する瞬間”です。

その意味は、計算や論理では捉えきれません。
心の深い問い、自己の誠実な探求、そして縁の熟成が重なったとき、
世界は「応答する他者」として立ち現れます。

このような世界観は、孤独感や疎外感に対して、
深い関係性と応答性を回復するための道を指し示してくれるのです。