Go to Top

【世界とは何か?】第2回:世界は倫理から崩れ、再び立ち上がる──アガンニャ経と縁起の構造


“世界の始まり”とは何か?

私たちはつい、「世界には始まりがある」と考えがちです。
ビッグバン、天地開闢、創世神話──どれも「最初に何かがあった」と語る形式をとります。

けれども仏教、特にパーリ仏典の『アガンニャ経』が描く宇宙の始まりは、これまでの宗教とはまったく異なる観点を提示します。

それは、「神がつくった世界」でもなければ、「物質が偶然生じた世界」でもありません。
世界は、“存在たちの行為”によって濁り、崩れ、制度化されていく過程なのです。

そこにあるのは、創造主ではなく、“倫理の変化”としての世界の生成です。


『アガンニャ経』に描かれる宇宙の構造

『アガンニャ経』(Dīgha Nikāya 27)は、古代インドにおいて最も異端でラディカルな創世神話の一つです。

仏陀はこの経典の中で、若きバラモンたち(階級を尊ぶ支配層)に向けて、こう語ります。

世界は永遠に循環し、生滅を繰り返す。
あるとき、世界は収縮し、再び展開し始める。
最初に現れたのは「光り輝く存在たち」であり、彼らは物質を持たず、空中を漂っていた。
だが、あるとき、地上に現れた「大地の甘露」を味わったことで、彼らは物質を持ち、肉体を持ち、比べ、争い、制度を生み出し始めた。

ここで注目すべきは、世界が「神の意志」によって始まったのではなく、存在たちの“欲望”と“分別心”によって崩れていったという点です。

この物語に描かれるのは、宇宙の創造ではなく、関係性の堕落です。


欲望と比較──世界を濁らせる最初の一滴

最初に現れた存在たちは、非物質的で、互いに差異がなく、分別もなかったとされます。
彼らは空中に浮かび、光そのものでした。

ところが、「大地の甘味」に目を奪われ、それを舐めたとき、はじめて「味わう」という個別の行為が生まれたのです。

この瞬間、差異が生まれます。
「あの人は多く食べた」「私は少ない」「私のほうが先だった」──

こうして、分別と比較、欲と争いが始まった。

それはあたかも、エデンの園でアダムとイブが「知識の実」を食べた後、羞恥心と分離感を持ったような象徴性を帯びています。

世界は、「悪」や「罪」から始まったのではありません。
“比べる”という心の働きが、世界を分裂させたのです。


制度とは、崩壊した関係性を“管理する仕組み”

欲望による争いが広がると、やがて「境界」を作り、「所有」を主張する者が現れます。

「これは私の土地だ」
「これは私の食べ物だ」
「これは私の女だ」

ここから、社会秩序が必要になります。
王が立てられ、階級が作られ、法律や宗教が制度化されていきます。

だが仏陀は、この制度の起源は本来的に崇高なものではないと喝破します。
それは、「堕落した関係性をとりあえず保つための応急処置」に過ぎないのです。

この思想は、バラモン階級を頂点とする当時のインド社会に対する痛烈な批判でした。

仏陀は、制度的権威ではなく、「行為によって人は清らかにも汚れてもなる」と説きます。
それは、行動=カルマが世界を編むという倫理的宇宙論です。


縁起──世界は“関係のネットワーク”として成り立つ

この宇宙観の核にあるのが、仏教の根本教理である縁起(Paticcasamuppāda)です。

縁起とは、すべてのものが互いに依存しあい、独立した実体など存在しないという洞察です。

  • 世界は、「あるものがあるから、これがある」という“条件関係”の網の目でできている。
  • 一切の現象は、「原因」と「条件」の積み重なりによって成り立っている。
  • したがって、世界とは「モノ」ではなく、「縁の働き」=関係の場である。

『アガンニャ経』は、この縁起の思想を、時間的=宇宙論的なスケールで表現したものと言えます。

世界は「存在の場」ではなく、関係の結果として“今ここ”に立ち上がっているということ。
それは、易経が語った「象としての世界」と響き合っています。


世界の崩壊とは、倫理的関係性の劣化である

ここで再び問いましょう──
「世界が壊れる」とは、どういうことか?

それは、隕石が落ちてくることでも、経済が崩壊することでもありません。
もっと根本的には、人と人との関係性が濁り、分断が深まり、信頼が壊れていくことです。

つまり、世界の崩壊とは、“縁”が切れること。
そして、“縁”が切れるとは、倫理が失われること。

『アガンニャ経』の核心はここにあります。
世界は、倫理的関係の織物として成立しており、欲望と分別がそれをほどいていく。


再生は、“倫理的想起”によって始まる

では、崩れた世界はどうすれば再生するのか?

仏教において、それは「神による赦し」ではなく、「自己の内にある“気づき”と“修復”」によって可能になります。

  • 比べない
  • 争わない
  • 欲望に流されない
  • 他者を道具として見ない
  • 差異を超えて、根本の平等性に気づく

これが、仏教が示す「倫理的宇宙論」なのです。

仏陀はこのように語っています:

行為によって人は清らかになる。
行為によって人は汚れる。
その人が何者であるかは、その人の行いによってのみ決まるのだ。

世界の再生とは、制度や権威の刷新ではなく、
一人ひとりの関係性の回復=縁の再編成によって起こるのです。


おわりに:世界は“分離”によって濁り、“倫理”によって再び立ち上がる

『アガンニャ経』は、宇宙論を語りながら、実は私たちの日常を語っています。

あなたと他者、あなたと自然、あなたと未来。
そのすべては、「私のもの」「あなたのもの」と分けた瞬間に、濁り始めます。

そして、その濁りは、個人の意識だけでなく、社会構造、文明の形、さらには世界の構造そのものに影響を与えている。

世界は、倫理の網の目のようなものです。
その糸が一本一本ほつれていくとき、世界は音もなく崩れていく。
逆に、その糸をもう一度、丁寧に織り直すことで、世界は再び立ち上がってくる。

それは、制度ではなく、「気づき」と「思いやり」によってしか達成されない、静かで力強い革命です。